【エッセイ】野草と春

エッセイ

(前の記事でお知らせしましたが、書籍のご紹介はお休みします。

これからは、地球生活で感じた事や思ったことを、詩やエッセイでお届けしたいと思います。

また、とどめておきたいなと思った知識や情報も、発信していきたいと思います。

日々、書き方やジャンル、表現方法が変化していくかもしれませんが、

私は「地球で地球と生きる」という大元のテーマをもとに綴っていく所存です。どうぞよろしくお願いします。

読んでいただき、ありがとうございます。)

きょうはよく晴れて、気持ちの良い朝。

いつもは夕方に散歩にでるのだが、桜もまだ咲いているだろうと見込んで、十分ほど歩いた先の小さな桜並木へと向かった。

帽子をかぶる瞬間は、出掛ける気分に早変わりできて、すぐそこまでのいつもの散歩道でも足取りは軽くなるから不思議だ。

日差しは温かくて、風は穏やかだ。

まず目に飛び込んできたのが、太陽に輝くたんぽぽだった。
あちらこちらに、せいいっぱい茎を伸ばして咲いている。

一分ほど歩いて、ふと立ち止まった。こんな元気のいい野草の姿をみて、やっぱり持っていこうかとカメラを取りに戻った。

久しぶりに電源を入れ、電池残量を確認。しばらく撮ってなくても残っているものだなと思う。ふたたび玄関をでるところから始める。

ヒバリの高い声が頭の奥までよく響いて、地面のナズナは一昨日降った雨のおかげでまた一回り大きくみえた。

モンシロチョウやモンキチョウ、シジミも嬉々としてひらひらと飛び交っている。本当に嬉しいという感情の権化で、止まることを知らず無邪気に遊ぶ姿は癒しそのものだ。

田んぼの間の細い道を歩くと、足元に一際色鮮やかな紫の花がある。

すこしはなびらに触れてみたら、意外にしっかりとしていた。

柔らかい色彩のなか、その目立つ濃厚な色で存在感を示している。毎春この花をみつけては、いつも名前だけ忘れて毎回調べている気がする。名前はムスカリである。

ムスカリと聞くと、国民的人気の某アニメ映画に登場する眼鏡をかけた腹黒いキャラクター、自称天空の城の王だ、彼の名前と似ていて覚えやすい…と毎回思いながらも毎年忘れている。覚え方を変えたほうがいいのかもしれない。

それはさておき、

ついこの前まで冬だった時期、私は道端の枯れたまま立っている野草がベージュとも言えない淡い色で白くなっていく様に、美しさを感じていた。

けれど、春になったらなったで目というものの焦点は切り替わり、小さく芽吹いて生き生きとした葉が太陽に照っている野草を無意識に探している。

ふと、隣合う色の違いにはっとする。それは個々の境目で、認識できるのは当たり前のことでもないのかもしれない。

すべての色を同時に見たいようにみえないものだろうか。春の風景は、その時の目が選ぶ寄せ集めだ。

何もないように見える野原を見るのが好きだ。

誰も栄養をあげたわけじゃない。一部は焼かれた畔だってある。それでも種は必ず残り、旺盛に花を咲かせてまた種をつくる。

そんなサイクルを感じながら野草の自立心に感銘を受けている。

桜の並木道に付くと、小さくミツバチの羽音が聞こえ、下にはチョロチョロと水路を流れる水の音がする。

よくよく見ると、サクラの花には沢山の生物が集まってくる。

明るい黄緑色のクモや、テントウムシのような虫、ちいさなアゲハ蝶。

枝を風に任せてゆらぎながらも、咲いている内にすることが盛りだくさんで、桜の周りは色々と忙しそうだった。

ミツバチを感じると、一瞬にかける集中力にスキがない。まるでおわりを逆算して振舞っている。きっと飽きるという概念がないのだろうと思うと、なんだかいいなと思う。

田んぼにはレンゲも咲き始めた。淡い色が発色する感じは、レンズには収められない気がするが、自然とシャッターを切ってしまう。

きょうの発見は、ケリがカラスを牽制するように追い払っていたこと。
ケリは警戒心が強い鳥とは聞いていたが、体の大きさではわからない強さがあるのだ。カラスもタジタジとは驚いた。

アオサギはちらほら優雅に佇む姿をみかける。いつの間にか日本に来たんですね、と思う。
いっぽう、ツバメだと日本にやってきたよ感があるの謎だ。小さいとはるばる飛来した印象が強くなるのだろうか。そういえば今年ツバメをまだみていないが、もうそろそろだろう。

じきにヨモギも大きくなる。
食べられる野草や山菜の中ではヨモギが一番好きだ。天ぷらにして今年も食べようかと思いながら帰った。

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