今回も、前回の本の続きです。(前回の記事はこちらから)
○著 者:岡本 央
○題 名:『泥んこ、危険も生きる力に
ないないづくしの里山学校』
○出版社:一般社団法人 家の光協会
○発売日:2019.8.20
子どもたちは思い思いに、
植物で編むカゴや、しめ縄なども作り上げるからすごいです。
森の季節ごとに、どこで何が採れるかも学び、
山菜などの自然の恵みを、全身で受け取りながら覚えていきます。
虫や植物とふれあい、自然のリズムに見守られている
写真の中の子どもたちの表情は、天真爛漫で逞しく感じます。
木登りも、小競り合いも、野菜作りも、一人で過ごすのも、
いつでもめいっぱい、感覚をフルに使って遊びます。
排除では自然はなりたたない
本の最後の方には、宮﨑園長が里山保育に対しての思いや、
長年貫いてきた考え方が、詳しく書かれています。
でも、危険を排除したら、もうそれは自然ではありません。動物園の動物のような、周りを警戒する必要も食べ物を探す必要もない環境に子どもたちを置いたのでは、意味がないんです
出典:岡本 央.『泥んこ、危険も生きる力に ないないづくしの里山学校』.里山保育の哲学.家の光協会、2019、P.98.
里山学校の周りには、ハチやヘビなどの生き物もいます。
しかし彼らがいてこそ自然が成り立っているというのが、宮﨑園長の意見ですね。
私はとても共感しました。
もし彼らが、最初から人間を危険な目にあわせようとねらっているなら、
家の周りに待ち伏せしているでしょう。
わざわざ人間を標的にしているわけではないと思います。
こちらが気づかない間に何かの刺激や、気に障る接触などの原因があって、
危険と呼ばれる行動をとるのだと思います。
毒を持ち、時には攻撃性があるという生き物の特徴を
しっかり認識することは大切だと思います。
人にとっては危ないもので、怖がるのも無理がないと思います。
私も、数百メートルの小さな山に登る時があるのですが、
”ヘビに注意”という看板が目に付くとドキッとしたり、
ハチが大きな羽音を立てながら近くを飛んでいるとびくびくします。
全く怖がらないでいるのは、難しいです。
これは自分流ですが、
大きなハチを見かけたら、
ひとまず立ち止まって何もする意図がないことを示しています。
ハチの住みかである森に入っているのは私だからです。
そしてあともう一つ、山に入る直前には
少しのあいだ山で過ごさせて頂きます、おじゃまします。というようなことを
こころで言ってから入るように私はしています。
それだけで落ち着いた気持ちで、山に入れる気が私はするからです。
それでも、ハチの危険性ばかり注目されますと、
人間の不安解消のために、
排除という選択肢も出てくるのだと思います。
小さい子供がいれば、
安全を確保したいという気持ちになるのは不思議ではないと思います。
不安要素はほんの少しでも、早いところ解決したいものです。
しかし一方で排除という考えは、
ハチに執着しているという時点で
人がとても不自由になっている側面も兼ね備えています。
少し離れた視点から見れば、
人体にとって危ないものを、その生き物がただ持っているだけです。
ですから自分に働きかけるのではなく、
ほかの生き物を何とかして排除して、相手の持ちものを敵視して、
人は本当に心から安心感を得られるのでしょうか。
排除という考え方も、
環境や状況によっては
その時の必死の処世術だとも私は思います。
排除というやり方以外の選択肢があることを知らなければ、なおさら、
一つの方法に延々と固執してしまうのも無理がないことです。
排除は早くて楽という側面も相まって、そのやり方が習慣化しやすい部分もあると思います。
ですが、
短期的に簡単にできる”排除”という考え方について、
本当にしたいことはそれなのか、
折に触れて、これからも自問していきたいなと、個人的には思っています。
宮﨑さんの、
動物園の例えの説明が、イメージし易く分かりやすいと思うのと同時に
現代の人間に重ねられて、確かにそうかもしれないと、私は悲しみも感じました。
動物園の動物は、
毎日健康を管理され、飼育員や登園者にたくさんの声をかけられて愛され、
檻から出なければ、かわいがられます。
檻から脱走したら大騒ぎで、脱獄犯を捕らえたかのように報道されます。
他の生き物と関わらなくても、
人によって安全な沢山の食べ物が与えられます。
しかしその環境では与えられていないものがあります。
いきいきと生きるために大切な、
自分を信じる力と、自分の力を信じる概念そのもの、です。
そんなふうに今の私は思います。
今日もここまでお読み頂き、ありがとうございました。
次回に続きます。