”好き”だけです

インディオの言葉

前回の写真集のご紹介の続きです。(前回の記事はこちら

○著 者:長倉洋海
○題 名:『人間が好き アマゾン先住民からの伝言』
○出版社:福音館書店
○発売日:1996.10.25

写真集をめくるたびに、

インディオの方々の自然な表情を感じられて、森の息遣いがこちらにまで伝わってきます。

実際に手に取るとはっと気づかされるのですが、

子供の目だけがキラキラしているのではなく、大人の目も輝いてみえるんです。

誰もが、自分の個性を安心してさらけ出せるのだと思いました。

子供たちの純真無垢な瞳も、少女や青年の自信に満ちたあふれる魅力も、

年長者の聡明な視線や強く美しい肌の模様もどれも素敵で、

何回も見返してしまいます。

”好き”だけです

その中で一組の仲睦まじく寄り添う夫婦の写真に、こんなふうに添えられた文がありました。

わたしたちには、
”愛”にあたる言葉はありません。
”好き”だけです。

出典:長倉洋海.『人間が好き アマゾン先住民からの伝言』.福音館書店、1996、P.85.

私は思わず、すごいと感嘆の声を上げていました。

単純明快で、ものすごく現実的で具体的で、地に足の付いた捉え方だなと感じたからです。

また、夫婦の写真と一緒に載っているところが、一層ストンと腑に落ちる気がしました。

一見、夫婦の写真に”愛にあたる言葉はありません”と書いてあるのは非常識かもしれませんが、

これはものすごく私にはわかりやすいなと感じたのです。

”愛”とは何か、どういうことか、

小さい頃からわからなかった私には、”愛”という言葉にはなじめずにいました。

人間は誰もが同じように教わっているとは限りませんし、受け取り方も様々です。

でも、このインディオの言葉が、何の迷いもなくスッと理解できたのです。

とても難しく愛を捉えていた私ですが、

もっとシンプルになっていいんじゃないかと言われている気がして、ほっとしました。

だって、そんなに必死になって、”愛”を言葉のなかに探さなくてもいいのですから。

難しく考えなくても、誰かに認めてもらわなくてもいいのですから。

とても、軽やかで自由な考えではありませんか?

愛にあたる言葉はない。とても痛快で、素敵な考え方だと思います。

「愛が何かわかっていてもわからなくても、関係なく安心して居ていい」

という意味のような気がして私はとても好きになりました。

もしかすると、

人間同士の根幹に流れる「愛」の立ち位置がインディオの社会では確立しているから、

あえて愛を言葉でとらえることがないのかもと思ったりもします。

結局は”好き”かどうかだけで決める。

シンプルで最高に素晴らしい響きですね。

当たり前の事と言われればそうなのですが、

愛とは何かはっきりと教わった人はどれだけいるでしょうか。

だから様々な方面から探究し、答えを求めてきたのだと思います。

それでもこねくり回して考えても人生はせいぜい100年間ですから

”愛”というその意味の論議に疲れる前に、

”好き”だけでいいという考えも受け入れてみるのも、いいのかもしれません。

私の個人的な考えでは、

愛という言葉を知っているかいないか、や

意味を知っているかいないか、や

愛を体得しているかいないか、は存在価値にこれらは関係ないと思っています。

だって、

愛の言葉を知っているから愛されたり、

愛の意味を知っているから愛されたり、

愛を体得しているから愛されたり、

その世界もいいですが、その世界だけでは不自由で嫌ですから(笑)

だから、

どんなに自分の中に愛を見失ったと嘆くことがあったとしても、

「”好き”だけでいい」が、自分を救っていくのではと私は思うのです。

それにしても、

”愛”の意味ほど、

受け取り方が千差万別な言葉はないのかもしれませんね。

だから宇宙は多様でカオスで自由過ぎるくらい自由なのかなと勝手に思ったりします。

今日も最後までお読みくださり、ありがとうございます。

次回に続きます。

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