本のご紹介の続きです。(前回の記事はこちら)
○著 者:長倉洋海
○題 名:『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』
○出版社:徳間書店
○発売日:1998.10
長倉さんとアユトンさん一行は、ジョルダン川を遡り始めてから五日目、
ようやくジョルダンという町に辿り着きます。
そこからさらに違うボートで3時間、旅の目的地のカシナワ族の住む場所に入ります。
同じインディオでも、個人レベルではかなり考えが違ってくる場合があります。
アユトンさんを頼って訪ねてくるインディオとの会話で、
現状を目の当たりにして実感する長倉さん。
旅も終盤になると、
長倉さんはアユトンさんに必ず聞いてみたかった深い内容の話を切り出します。
人間が備えている二つの流れのエネルギーについてや、
生きる意味について、アユトンさんは長倉さんに持論を語るのでした。
好奇心が満たされる
訪問を終えた長倉さんとアユトンさん一行を、カシナワ族の人などが見送ってくれました。
川辺では無邪気に遊ぶ子供たちの姿に、
あのような遊びが大切なんだと、アユトンさんは語ります。
地球上での遊びや好奇心が満たされた時、我々は安らかな気持ちでこの世界を捨てる準備が整ったと思えるようになります。
出典:長倉洋海.『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』.第四章カシナワの地へ.徳間書店、1998、P.187.
とてもシンプルでわかりやすい言葉と、
このようなキラキラした喜びのある風景の中にも
揺るがない死生観を見据えているところに、私は感動を覚えました。
”遊び”や”好奇心”は、
こなさないと回らない家事や、追われるような忙しい仕事など、
頭の中が混線しすぎて忘れがちなので、
「いつも持っていたいよね」とか「持ち続けていられたら」
という常套句のようなフレーズが出てきたりします。
一見、あきらめや他人事のように思い返して終わりにしているかのように見えますが、
それだけではないと私は思います。
”遊び”や”好奇心”は、時間と空間に縛られず、
年齢や年代も関係なく存在するものだとどこかで確信しているから、
事あるごとに口先から出たり、何度も思い出したりするのではないのでしょうか。
忙しすぎて、引き出し方を忘れているだけなのだと思います。
どうやったら引き出せるのかというですが、
私の経験から思うのは、
まず心がせわしなさで疲れていたなら、
ゆっくりする時間で自分をいたわり、
考えすぎる頭と体を休ませることが大切だと思います。
そして、遊びや好奇心の引き出し方は人それぞれ違うとも思います。
例えば、ふと思いついたものを形から入ってやってみたら、
夢中になれることもあると思います。
今はネット環境があればWeb記事や動画で、何でもすぐ教えてくれますよね。
あとは、小さい頃に夢中になっていた事も自分を助けてくれると思います。
アユトンさんが川辺で遊ぶ子供の話をしたので
私も思い出したのですが、
大人になってから好奇心に任せて川で遊んだことがあります(笑)
読む前にご留意頂きたいのですが、
これから書くことの行動自体の真似はオススメしません!
浅く流れが緩い川でも、相手は自然ですので。
あくまで、好奇心のまま動くという雰囲気の流れだけ汲みとって頂き、
もしも何かしらの原動力やヒントになったならと思いますので、宜しくお願いします。
話を戻しますね。
私は人間の年齢でいうと大人の部類なのですが、
数年前、無性に川が恋しいという気持ちが湧き起こった夏がありました。(笑)
私は小さい頃から川遊びをして育ったため、川は大好きですし川面を見るのも好きです。
その年の夏が暑すぎたからかよく覚えていませんが、その年だけは
川に親しみたい、とにかく触れたいという衝動だけで車を山の方へと走らせました。
車道の隣を流れていたある川を横目にちらちら見ながら、
下りていけそうな川をチェックしていました。
すると川幅が狭くて流れも弱く、ものすごく浅い箇所を見つけたのです。
「入りたい!」「浸かりたい!」
しかも、まったく故郷の川とは離れた場所の川で、近寄ったこともない川でした。
近くに車を止めて、車道を横切って川を下りて行く場所を見つけました。
近くには魚釣りをしに来た人らしき車が止まっていて、
川岸の蒸し暑く荒れた叢の中に誰かが通った一筋の道を見つけました。
それで、「下りられる!いける!」と思った私は、ワンピースのまま
踏みしめられた跡を辿り、とうとう川に付きました。
(足元のキケンな生き物に注意が必要ですので真似しないでください!)
靴と靴下を脱ぎ、足を入れます。川も入らせてくれそうな雰囲気を感じました。
藻のついたぬるぬるした小石たちに、足つぼマッサージを受けているかのように進み
ぎゃーぎゃー言いながら川の真ん中にある腰かけれそうな岩まで行きました。
岩の乾きや温かさに、懐かしく思いながら、水面をみていました。
最初は静かに流れる川の音、波の輝き、夏の川の匂い、
川面に反射した光が川岸の木々に映えて揺れる様、それらに囲まれて
ひざを抱えて座っているだけで満足していたのです。
でも、川の流れを見ていたら、浸かりたくなりました。
ごく浅いの水位の場所で最初は足だけ入りました。
次に腰を下ろして下半身を水につけました。
スカートの裾が美しく川の流れになびいて、
川の中でその感触はたいそう心地いいものでした。
気持ちよすぎて、手に水を掬い上半身に掛けていました。
この時には既にネジは飛んでいましたね。(笑)
もうずぶぬれになっても構わないと、
誰もいないし少しの間でも川と遊びたかったのです。
そして少し体を水平にして寝そべるような形になっても
平気な水の緩さと浅さだったので、顔だけ出して気を付けながら、
やわらかい流れを感じてみました。
数十秒でも
あの流れの揺らぎ、
手をすり抜ける滑らかさ、
安全と認識したうえで、水に身をまかせることの浮遊感と安心感、
ワンピースと肌のやわらかくどこか温かい肌触り。
夏の日差しの強さと鮮明な空が、現実の位置を確かめられるもののようでした。
とにかく、どこを切り取っても私にとって最高でした。
有名な絵画にありますよね。
女性が小川で仰向けになり、上半身を浮かばせながら目を閉じている姿が印象的な
ミレーが描いたオフィーリアです。
それをまねたつもりはないのですが、結果的にそんな感じになりました。
でもやっぱり夏でも川の中に数分もいれば冷えてしまうので
多分5分も浸っていられませんでしたが、
もし体温が下がらない体だったとしたら一日そこで過ごしてしまうんじゃないかというほど
心地よかったです。
途中、下流の方から魚釣りをしていた方が近づいてきて
すごいね、よくやるよね、と笑って言われましたが、
川で遊びたくなったんでとずぶぬれ状態で答えた私に
恥ずかしさは全くありませんでした。(笑)
よく考えれば、上から見れば
真昼間に川で寝そべるようにして
ワンピースをなびかせている怪しい人間にしか映りません。
遠くから見た人が勘違いして大丈夫かと通報されてもおかしくないよ、と
その魚釣りの人も笑って言っていましたから。
でもその方も、ネジが取れたやばい人間を見て何を思ったのか、
少し離れた上流の方に移動しはじめました。
すると、私のように川に浸かったり、
水面をバシャバシャさせたりして一人で遊んでいました(笑)
なあんだ、あの人もやりたいんじゃん!(笑)って思いましたが
私との会話のあとすぐ見栄をとっぱらって遊び始めるしなやかさも、
なんかいいなと思いました。
大人だって、何十歳だって、誰に何を思われてもいいから自然と遊べばいい、
子供の様に遊べばいい、子供の様じゃなくても夢中ならなんでもいい、
そんな気持ちで嬉しくなりました。
おかげで、帰り道の運転席のシートは多少は濡れましたが(笑)
夏の暑さですぐ乾いたので、大したことはありませんでした。
思い切ったことをしたなと今でも思います。
時間にすると数分の出来事だったかもしれませんが、
言葉にならない揺らぎを強烈に感じました。
本当に安全に楽しませてくれた川に感謝です。
話を戻しますね。
このような思い出を思い返した後に、
アユトンさんの言う、
”遊びや好奇心が満たされた時、
我々は安らかな気持ちでこの世界を捨てる準備が整ったと思える”という言葉を
なぞってみると、
その通りかもしれないと、体験を通して共感します。
あの衝動から始まりあの川に着いてあの瞬間の体験ができたことは
自分でもものすごく、納得のいく命の時間の使い方でした。
もしもあの時私が人目や常識を気にして、
本当は胸まで水に触れたい気持ちを抑え、はしたないとか大人げないと思って
足だけ川に浸かって満足した気になって帰ったら、不完全燃焼になっていたと思います。
ましてやもしあの日の帰り道に人生の最期がきていたならば、
絶対に、あの時思う存分全身浸かればよかった!と悔しがっていたでしょう。
だから、あの夏の日に衝動のままに動き、ネジが吹っ飛んだ私に感謝しています。(笑)
たとえ死ななくても、あの日はあの日しかなかったことを思えば、
自分のことだけ振り切って、やり切っていれば、
きっと死ぬ時期を心配しなくていいと思うんですね。
たとえ死がこわくても案外、
幸せな瞬間は「いつ死んでもいいわ~」って思ったり言ったりするんですよね(笑)
その通りなんだと思います。
満たされている、素敵な瞬間を味わっている、
死を意識してもなお満たされて幸せだ、
ひいては、死を意識して更に幸せだ、
そんないろんな意味が含まれると思います。
衝動がきたときは、衝動にまかせて振り切る、その日をやり切る、
できることから私もやっていきます!
見た目を気にせずずぶぬれになってみた心の中は最高でしたから(笑)
今回の記事でこちらの本のご紹介は終わりです。
初回から16回に分けて、
今の私の心に響いた箇所を抜粋しましたが、
本当はご紹介したい所がもっと沢山あり選ぶのにいつも迷っていました(笑)
今の私では理解できない所や今の私と考えの違う箇所も正直ありましたが、
インディオの考えに共感できる部分が本当に多くあったこと、
それを遠く日本にいながら受け取らせて頂けたこと、
インディオが歴史を生き抜いてくれたこと、
探究心と情熱を持って取材してくれた長倉さんと、
インディオの自立に尽力し、インディオの知恵を惜しみなく話してくれたアユトンさん、
通訳さんや協力者がいてくれたこと、
本当に感謝です。
長倉さんの撮った写真も本当に素晴らしいです。
ご興味のある方はぜひ、読んでみて下さい。
今日も最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
次回は、
インディオつながりで長倉さんの別の本、写真集のご紹介をしたいと思います。