本のご紹介の続きです。(前回の記事はこちら)
○著 者:長倉洋海
○題 名:『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』
○出版社:徳間書店
○発売日:1998.10
長倉さんとアユトンさんは、カシナワ族を訪れる旅に出ます。
リオ・ブランコ空港からセスナで2時間かけてタラオカという町まで行き、
さらに小型船でジョルダン川を3日も遡る船上の旅へと移ります。
夜はハンモックに揺れながら、川面に月と森が映る景色。
朝も鳥の声から始まり、本を読んだり、ゆったり自然を味わう長倉さん。
繊細な自然のオーケストラ
アユトンさんは長倉さんに、インディオの昔話をしたり自然の捉え方について語ります。
次の言葉もその一つです。
例えば蝶の羽根の模様を観察したり、小川の流れが描く模様や、花々、小石などの模様、椰子が目を出し、成長して実をつけ、房が連なっていく変化などを見守る注意と忍耐が育つようになれば、あらゆる生物がおりなす無数の形や色の美を見つけられます。小さな昆虫や鳥や大きな動物たちと同じようにいろいろな音を出し、とても微妙で繊細な音色で自然のオーケストラを奏でています。
出典:長倉洋海.『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』.第四章カシナワの地へ.徳間書店、1998、P.163.
アユトンさんの言葉は、自然と映像が浮かんでくるかのように私には聞こえます。
蝶や川、花や石、木やその実、虫や鳥や動物まで、
インディオの視野はものすごく広く理解も深いのだろうと感じました。
森という場所の危険性も認識しているからこそ、
生活の場が感覚を研ぎ澄まさざるを得ないのかもしれませんが、
それでも、こんなに地上から空まで全体的に感じられる状態は
ものすごく心が柔軟で豊かなのだなと私は思います。
そうした細やかな自然の美しさを感じる為に必要なのは
”変化などを見守る注意と忍耐”とアユトンさんは言っています。
人間にも通じるところがあるのかなと、ふと思ったりします。
これは、頭の領域ではキャパオーバーになりそうですね。
全神経や感覚で、捉えていくものでしょう。
長倉さんも本の中で彼らの感覚の鋭さに触れていますが、
インディオは地面を這う蛇の音も察知できるので、
彼らの後を歩いていれば毒蛇に会う心配はないということも書かれていました。
すごい聴覚ですよね。
耳がいい以上の次元に思えます。
多分、本当に見えているもの、聞こえているものが、
まったく私たちと違って世界が見えるんだろうなと、
アユトンさんの言葉から思うのです。
”とても微妙で繊細な音色で自然のオーケストラを奏でています”
なんて、かわいらしくて美しい表現ですね。
オーケストラというとイメージし易いです。
それぞれ役割があって、堂々と存在して、自分の音を響かせていいということですね。
自然はいつもお手本をみせてくれているかのように、
自然にそれをやってのけています。
私が特に気になったのは、
普段から自然を見る目を養い聴覚も鋭いアユトンさんが、
音色は繊細だと言い切る部分です。
なぜだか南米の鬱蒼と茂る森の中は、
ワイルドで賑やかなイメージが勝手に浮かんでしまいますが、
よく聞く聞き分けると、実際は繊細な音から成っているのかもしれません。
そういえば、
「ぼーっとしてたらいかん」と、
私の父もことあるごとに言っていたことを思い出しました。
その時はバカにしたような物言いに腹立さが先に立って、
サバイバルゲームじゃあるまいし、と話半分で聞いていたのですが、
思い返すと、
周囲に目を配っておけよ、という意味だと思います。
それは、小さな変化、周りの景色から何を捉えて、常に考えて行動しなさい
という事を言いたかったのではと思います。
それがどんなに役に立つ教えでも、言い方によってはカチンときて
素直に身に付けようなんて思えなくてあまのじゃくになってしまうんですがね(笑)
それは横に置いておいて(笑)
確かに父は、
野で山菜を採ったり、山で猟師をしたり、川で川魚を釣ったりと、
昔から自然で生きる術を身に付けていました。
父が子供の頃そう生きる方法がなかった時代の側面もありますが、
一番は、自然が好きで信頼をおいているからだと思います。
私も小さい頃は、
春の山菜採り(タラノメ、ウド、フキノトウ、アズキナなど)や
夏の魚釣り(アカムツ、ウグイなど)に連れて行ってもらっていました。
どこに何があるのか知らなければ採りに行けないですし、技術もやる気も必要ですね。
インディオのような感覚もっていた父にも、田舎で育ったことにも、
当時は気づけなかったですが、本当に感謝です。
おかげで、もともと自然は好きに加えて、
自然のものを口にする、戴くという喜びによって
循環を体で学び、自然を大切にする気持ちが無意識に育っていたと思います。
少し話が逸れてしまいましたので少し戻します。
そういえば今日、”オーケストラ”を感じた事がありました。
私は散歩が大好きで、ほぼ毎日数十分でも外の景色に触れていたいのですが、
今日よく目についたものは、足元に咲く「オオイヌノフグリ」でした。
夕方に近くなるとすぐ花を閉じてしまうのですが、
お昼過ぎに散歩できた今日は、その爽やかな青に嬉しくなりました。
曇り空でもなぜか青い色は明るく映えて見えるんですよね。
一歩一歩進む度に、ぱぱぱぱぱぱと
小さな花の光が私の視野のリズムで咲いて行き、
花の顔に照らされているようで私が元気になりました。
まるで、昼間でも夜のイルミネーションを散歩しているようでした。
立ち止まってのぞき込んでゆっくり見るのですが、
野草の持つ可憐さや
常に地球と一緒にいて絶えず咲き続ける覚悟や強さには、本当に尊敬します。
どんなに人間に踏まれても、刈られても、薬をまかれても、再生する静かな美しさ。
実際に音色は聞こえませんが、
足元に咲く春の花の美しさは眩い星の光のようでした。
今日もここまで読んで頂き、ありがとうございました。
次回に続きます。