本のご紹介の続きです。(前回の記事はこちら)
○著 者:長倉洋海
○題 名:『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』
○出版社:徳間書店
○発売日:1998.10
次の旅は、ノーバ・エスペランサ村のヤワナワ族。
多くの紆余曲折や困難を乗り越え、
新しい希望という意味で名付けられた、93年に森を切り開いて作られた村です。
森の豊かな自然の中狩りをしたり自由に踊ったり、
全てのものを共有し、文化を守って暮らすことができるようになったそうです。
各地に散っていたヤワナワの人も再び集まり、活気づいてきました。
一人ひとりでに創造
アユトンはこの村の滞在中にも、長倉さんに多くの大切にしている言葉を語ります。
その中でも、民族の未来をこう考えています。
でも一人でも生き残っていれば、その民族は彼を通して生き残ると思います。その生存者が祖先からの遺産を持ち、夢を持ち続ければ『世界』を再び創造できるのです。
出典:長倉洋海.『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』.第二章アクレへの旅.徳間書店、1998、P.92.
実際この村を作った人々が穏やかな暮らしを実現させ、
それを見てきたアユトンさんだからこそ説得力を感じました。
前回の記事の文化の重要性と少し重なるところもあります。
”祖先からの遺産を持ち”の部分は、
まずは先人の知恵や情報、
次に現実的に実践できる場所も必要だと私は思いました。
”夢を持ち続ければ”のところは、実は一番重要だと私は思います。
本人にその気がなくなれば、
どんな知識や場所があってもそれまでになってしまいます。
それも、一時のカッコいい思い付きや夢を語って終わるのではなく、
常に目的を持ち続けていられる状態が、本当に貴重で大切だと思います。
それも無理やりでなく、
いてもたってもいられないという状態になったら無敵だと思います。
その原動力と仲良くするやり方というか、自分の奮起のさせ方というのは
きっと人それぞれに違うのだと思います。
「絶対にこうしたい!」だったり、
「もう二度とこうはなりたくない!」だったり、
はたまた、その両方を意識したほうが動ける人もいるかもしれません。
私の場合は、両方でした。
片方だけでは体が自ずと動くまでにはなりませんでしたが、
両方を意識する日々を重ねました。それが原因かわかりませんが、
「こうしている場合じゃな~い!」という自分への驚きや怒りが出てきた日がありました。
とても大きな怒りでした。
今までも自分への怒りはありましたが、自分を責める方向の怒りでした。
これまで自責に怒りを使っていたのが、その時は自分への乾いた怒りというか、
明るい怒りが出てきた時があったのです。「なにしてるんだあ!」と。
私はその感情に振り回されないようにしながらも、
どこかでそんな自分を喜んでいました。なぜなら、
自分に怒りが出てくるほど、そしてその怒りを受け止められるほど、心が癒えてきた
証拠だと捉えたからです。怒りを支えるだけの底力や
ネガティブ感情に対して本来の方向で耐えうるの器のようなものが
機能し始めたのかもと思いました。ここまで癒えることができた自分に感謝です。
私には私のペースがあったんだとも、思いました。
疲れていた心の回復度も大きな要因であり、
乾いたような怒りの感情を認めたとき、
大きな原動力になった気がします。
私にとっては、このブログを始めたころに、
もしかしてこれが衝動というものかと思う感覚がありました。
損せず効率よくとか、誰かより先にとか、誰かの特別になりたいとか、
早く結果を出したいとか、追い抜きたいとか、勝って一時でも安心したいとか、
今までの傾向からまたこうなってしまうかもとか、責めて逃げたいとか、
誰かを救わなきゃとか、価値を上げなきゃとか、
お金とか、他人の目とか、役に立とうとか、
生きる価値とか、失敗や成功とか、
本当にそれらはどうでもよくなってしまうのです。
かつては、本当にそれらを最重要視していた私が、
最近、どうでもよくなってきている私もいるのが不思議です。
今やりたいからする、それだけです。
きっと、今まで重要視してたものが入り込まないほどの衝動の呼吸が膨らんで、
自分の世界の創造の土台となっていくと信じています。
アユトンさんの言う『世界』にも通じていると思っています。
無謀かもしれません、向こう見ずな考えかもしれません。
でも今思いついてやりたいのですから、気のすむまでは仕方ないですし、
たとえそれで転んで失敗しても、たとえ明日お迎えがくることがあっても、
ある意味で毎日やり切っているのでスッキリしていますし、
その時々今やりたいことを選んだのは自分だからと、納得できると思います。
”『世界』を再び創造”のところも、とても心地よい響きに私は聞こえます。
そうなんです。再び創造できるんですよね。
過去に破壊の世界を体験したことのある私なので、
再び創造ということを思うと、
ものすごく、ものすごく静かなところで安らぐいたわりと
感知できるかできないかくらいとても繊細な希望と
言葉にはない意味不明の確信のようなものを感じます。
その世界は、美しく自由です。
一人からはじめるものだから、なのかもしれません。
最初は本当は、こわいです。本当に孤立したようです。
でも振り返っても何もないんです。
行きたいところは振り返ったところにはありません。
後ろに好きな世界がないとわかるまで、振り返ってもいいと思います。
その時すら歩みを止めていない自分は確実にいます。
まだ自信の自覚はなく進んでもいいんです。
それでも、
信じられる一つの存在が自分であることに
きっと喜びをじんわり感じられる時がくると、私は信じています。
アユトンさんが、実際に激動の時代を体験されてもなお、
世界の創造を信じておられることに、尊敬の念を持ちます。同時にとても
勇気づけられたので感謝です。
一人で創造するときの、衝動への感謝とその感覚を思い出せるようにと、
一人”ひとりでに”創造、というフレーズで私なりに表現してみました。
今日も最後まで読んで頂いて、ありがとうございました。
次回に続きます。