世界観と行動の一致

インディオの言葉

本のご紹介の続きです。(前回の記事はこちら

○著 者:長倉洋海
○題 名:『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』
○出版社:徳間書店
○発売日:1998.10

川を遡って、長倉さんとアユトンさんはアシャニンカ族という大部族を訪ねます。

ブラジルに約1万人、ペルーに約2万人いると言われています。

用意してもらった家に壁はなく、筒抜けです。

旅人の行動を好奇心いっぱいにじっと見てくる村人に、最初は長倉さんもたじたじ。

やがて段々と慣れてきます。

村人は狩りや機織り、畑などをしてゆっくりと生活を楽しみ、

祭りでは歌い踊り、人生を楽しんでいます。

長倉さんは首長さんと話し、

この民族がどんな生き方をして何を次の世代に伝えるかを、

自分たち自身で熟知して生きている事に気づきます。

世界観と行動の一致

アユトンさんは、長倉さんに補足するように伝えます。

村で遊ぶインディオの子供たちは、すべてが自然に統合された世界観を受け継いでおり、自分たちの行動が祖先からの記憶と一致しているので安心しています。世界の鑑に自分が照らされた時、はっきりと自分そのものが見えるのです。

出典:長倉洋海.『鳥のように、川のように 森の哲人アユトンとの旅』.第二章アクレへの旅.徳間書店、1998、P.73.

この言葉の中にも、ものすごい情報量があると私は感じます。

(深い言葉を持ち、いつでも語れるアユトンさんもすごいと思うのですが、

通訳者さんも同じくらい素敵です。)

”すべてが自然に統合された世界観”というのは、

正直私にはよくわかりませんが、

不安もわだかまりもなく、安心して把握できている状態なのではと、今の私は感じます。

生まれた時からそのような心の状態ということは、

それ以前に大人がそれを体現できているという事だと思います。

”行動が祖先からの記憶と一致しているので安心”なのは、

誰かがどう生きて、何を伝えてくれて、自分はどう生きたいか、

自ずと自問でき、それが揺るがない自信になっていくのではないかなと思います。

私が祖先という言葉を思う時、はっきりいってピンときません。

先祖という方が、何世代前か文字で残っていることが多いですしわかりやすいです。

でもそれも結局、思い浮かぶのは、血筋、時代、人種、ですね。

姿かたちや数字で区別がつくもの、そんな気がします。

祖先が何のために何をしてきたか、その奥を捉えるには、

なかなか見えにくいものがあります。理解しがたい事情にぶち当たると、

そこで考えることを止めてしまったりします。

現代社会では毎日の生活に追われ、先人の生き様を考える余裕もないのが

正直なところだと思います。

しかしインディオは、祖先が何をしてきたか、現在の自分は何をしたいか、

そして次の子供たちに何を伝えるのか、

そのすべてに明確な答えを持って生きているのです。この一貫した姿勢は強いです。

彼らの言う祖先という言葉が示すものは

文化、考え方、人々の幸福、どこからきたか、という感覚的なことを

意味しているのではないかとそんなふうに私は感じます。

つまり、目に見えない知恵や、時間を超越して流れるあたたかいものです。

彼らとは違う道を辿っている私が、祖先を考えた時には、一筋縄ではいきません。

なぜなら辿った道のりが複雑すぎるからです。現代社会の抱える心の葛藤そのものです。

時代や文化あらゆる歴史的事実を紐解きながら、落ち着いて捉える必要があると思います。

例えば、

私の実家はとてもとても古い家でしたので、

明治・大正・昭和初期に使われていた農作業用の道具、器や昔の枕などの生活用品が

蔵に残っていました。江戸後期のモノもあったかもしれません。

小さい頃はそれらが収納されている蔵をこわく感じていました。

見るときも、おそるおそる、こわいものみたさのような気持ちでいました。

それらは実用的に使われることはなく、親や他の大人が使っているところも

見たことがありませんでした。

昔の農機具を使ってみよう!というイベント的な授業もありましたが、

また使いたいとかそこまで夢中になることはありませんでした。

物珍しさという部分の方が大きく、現実的ではないことは、

大人も子供もどこかでわかっていたのではないでしょうか。

伝統は絶やしてはいけないと口にはしますが、

そこに価値を見出し、今の時代に使えるように試行錯誤もいりますし、

最も大事なのは、きっかけは何であれ、自らそうしたいという気持ちです。

モノとして伝統や文化が残っていて、リアルタイムで人と人に伝わる熱があれば、

文化と文化的な生活は自然に受け継がれるのだと思います。

しかし人は文化を見失うこともあり得ます。

そんな時は、その場限りの伝統に触れる体験も、意味はあると思います。

時を経て心が動くこともありますよね。

それに、まだモノとして残っていれば取り戻せる可能性はあるからです。

少し寂しいことではあると思いますが。

現実的にどう使っていいのかわからないし、完璧に取り入れる気もそこまでないのに

さびしいだなんて、わがままかもしれませんが、そうなのです。

文化や伝統に対して、すごいなと感じることはあっても

生活とは切り離した特別なものであり、完璧な技術や芸術のように分類して

近寄りがたいジャンルとして自ら遠ざかり、

それを活かして今の生活に取り入れてみようとか、

その取り入れることが何を意味しているのか、

取り入れること自体の価値を見出そうとしない私でした。

でも本当にそうでしょうか。

衣食住など、何か一つの分野でも、自分の知らない間に

現代を生きる自分が今できる範囲で、既に受け入れている文化はありませんか?

農機具は持っていない私でしたが、

だいぶ昔に買って眠らせていた、古着の着物を今も持っていることに気づきました。

綺麗に着れる自信もありませんが、洋服の上から着てみました。

帯も一番簡単な結び方をネットで調べて教わりながら、結びました。

正式な形ではなくても、自己満足でも、すごく豊かな気持ちになりました。

イヤリングをして、髪を一つに結び、調子に乗ってたすき掛けをしてしました。

姿勢も自然とスッとよくなりました。

和装は美しい、

日本の着物は洗練されていて素晴らしい、

日本に生まれて着物を着られてよかった、と感じることができました。

みんな着物を着ていた時代は、きっとみんな姿勢もよく、粋な感じで、

それぞれ信念を持ち生きていたんじゃないかと思いました。

じゃないとこの着物はまとえない気がしてくるほどです。

着物はそういうものを簡単に思い起こさせてくれる、不思議な衣類です。

一日だけでも、衣でこんなに気分が変わったんですね。

さすが衣食住の中の一つ、衣の持つパワーはすごいです。

完璧な型通りでなくても、伝統を少しでも自分で楽しめたことが嬉しかったです。

インディオとは違い、日本で文化を感じようと思うと、

身近にある文化を掘り起こしたり、自分から追及しないとわかりにくいものです。

インディオのように、子供のころから文化や伝統に意識が向いてなかったとしても、

文化や伝統に触れたいと思えた時、流れは変わるのかもしれません。

というかそうでないと困ります(笑)

最後の、”世界の鑑に自分が照らされた時、はっきりと自分そのものが見える”

の部分も、今の私には正直わかるようでわかりません。

でも今の心に少しでも気になるフレーズだったので書きます。

インディオの初めて見る世界とは、村人であり、村であり、森なのだと想像します。

それが前の”自然に統合された世界観”につながるのだと思います。

“世界の鑑”とおっしゃっていますが、インディオにとっては、世界は鑑なのでしょう。

鑑を、手本となるもの、という意味で使われているのでしたら、

インディオが生まれてから感じられる森の鼓動や風、鳥のさえずりや雨の音、

人々の声や安心感やつながり、そういうものが鑑というなら、

眠っている時でさえ自分の素晴らしさを何の疑いもなく知っているような気がします。

鑑に照らされる、という表現が私にとってはとても興味深いです。

では鑑を照らしているのは誰でしょう?

という疑問が出てくるからです。

それは”はっきりと自分そのもの”という言葉が説明してくれているのだろうと、

今の私は受け取ります。

今日は話があちこちに飛びましたが、最後までお読み頂き、ありがとうございました。

次回に続きます。

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